田中町は、現在の日の出町交差点から東武野田線ガード下の水路までの区間で、渋江町の北側にあり、日光御成道の両側に民家四十五軒が点在していました。日の出町交差点から渋江方面を見ると御成道は、への字型になっていて田中町を見通すことができません。それは、直線だと城を守るときに見通しがきいてしまい不利になってしまうためにあえて曲げていると言われています。中世城郭の面影を残す岩付城では、ほかに市宿町、久保宿町にみることができます。延享三年(1746)の田中町の様子は町の長さ二町五間(約227m)、家数三十五軒、人口二百五十五軒、寺は大寿院、松龍院、町役人は名主一人、組頭一人、馬数二匹と報告されています。大寿院は、不動院(春日部市)の配下で本山山伏に属しています。松龍院は、久保宿町の大龍寺末寺で外雲山松龍寺といい、曹洞宗に属しています。(現在は廃院)文政九年(1826)の名主は武兵衛、組頭は与兵衛、百姓代は利兵衛が務めています。田中町には二つの出入り口があります。一つは日光御成道で、大構と交差する田中口(現在の出口交差点付近)は、切り通しになっていました。ここには屋根の付いた門や番所・御関札建所があり、番所では人々の確認が行われていました。岩槻城外に出るには市宿口、横町口、林道口、旦過口、諏訪口、冨士宿口がありますが、屋根がついた門は田中口だけです。この田中口の門は、徳川将軍が日光社参の時に槍を立て通行できず、槍を倒して通行したのでここの門をいつしか「槍かえしの門」と称するようになりました。この時の門は、浄安寺の山門になったと言い伝えられています。しかし、城絵図や道中絵図を見ると田中口の門は屋根がついた門が描かれています。もう一つは、岩槻城の帯曲輪である新正寺曲輪から田中町に抜ける道筋で、曲輪と町の境目に新正寺口が設けられ、ここには門と番所がありました。江戸時代の記録に、「厳重な番所もあり、番人二人がおり、何やら内職をしている様子なので無断にて大門から田中町へ通り抜けた。」と記されています。岩槻城主阿部家時代には、新正寺口から久伊豆神社の間は家臣が居住する士族屋敷を形成していました。田中口を出て直進すると幸手、左上の小道が中仙道上尾宿、左は大構の外側を回り加倉にいたります。田中町の石高は八十九石七斗四升四合です。検地は阿部家時代の明暦二年(1656)に行われました。田中口から龍門寺先の旧元荒川までを〝出口〟と称し、御成道沿いに民家十八軒がありました。ここからの冨士山や山々が遠望できると記されています。【文責・飯山実】
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