岩槻地方史研究会 岩槻九町について⑪~四ケ新田~

城下町は、九町と新田から成り、岩槻宿(道中奉行の支配管理)とも呼ばれ、岩槻城主と幕府の二重支配を受けていました。
宿付の新田は、掛新田、江川新田、長左衛門新田、佐太夫新田、金重新田、平林寺新田、春山新田、齋藤新田などありました。
この中で掛新田、江川新田、長左衛門新田、佐太夫新田を「九町四ケ新田」と称しています。
これに齋藤新田を加えて、「九町五ケ新田」とも呼んでいました。
四ケ新田は、幕府が正保元年(一六四四年)に作成を指示した正保郷帳に記載がなく、元禄十年(一六九七年)作成を指示した元禄郷帳に記載があるので、この間に開発されたと考えられています。
佐太夫新田は、周囲を箕輪村、馬込村、箕輪新田飛び地に接しています。
新田の名称は、開発者大和田村の佐太夫の名前を新田名につけたといわれています。
新田の規模は、東西一町、南北一町の広さでした。
文化・文政期(一八〇四から一八三〇年)の家数は八軒、名主は友右衛門、弘化四年(一八四七年)の家数五軒、人数二十二人でした。
安政五年(一八五八年)の反別は四町五反余でした。
明治六年平林寺村に合併しました。
長左衛門新田は、周囲を箕輪村、馬込村、箕輪村飛び地、平林寺村飛び地に接しています。
新田の名称は、本宿村の中島長左衛門が開発したので、開発者の名前を新田名にしたと伝えられています。
新田の規模は、東西八町、南北八町の広さでした。
宝永六年(一七〇九年)の人数は七十四人(男四十一人、女三十三人)、文化・文政期の家数は十四軒、名主は長左衛門、弘化四年の家数十四軒、人数七十八人でした。
安政五年の反別は十二町三反余、ほかに藍瓶役鐚三百文を納めていました。
明治六年平林寺村に合併しました。
江川新田は、周囲を岩槻宿、本宿村、掛村、元荒川に接しています。
新田の規模は、東西五町、南北三町の広さで、宝永六年の人数は二十三人(男十一人、女十二人)、文化・文政期の家数は六軒、名主は喜平次、弘化四年の家数七軒、人数四十七人でした。
安政五年の反別は四町五反余でした。
明治六年岩槻町に合併しました。
掛新田は、懸新田とも書いていました。
周囲は、金重村、平林寺村、掛村、平林寺村入会地に接しています。
新田の規模は、東西五町、南北二町の広さで、宝永六年の人数は九十八人(男四十七人、女五十一人)、文化・文政期の家数は十四軒、名主は所右衛門、弘化四年の家数十七軒、人数七十二人でした。
安政五年の反別は九町四反余でした。
明治六年掛村に合併しました。
【文責・飯山実】

新田開発の進められた地域
新田開発の進められた地域

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