ココロとカラダの薬箱 『パラリンピック物語②』

 中村は愛車を手放して何とか2人の選手の渡航費と滞在費を工面した。
医療スタッフの看護師、事務方についても何とか目途が付いたようです。
ようやくロンドン郊外のストーク・マンデビル病院に到着です。
ヨーロッパやアメリカから選手が集まっています。
笑顔でハイタッチする様子を見た中村に違和感がありました。
サポートらしき人がいない。
選手の大半は、飛行機を乗り継いで1人でやって来たようです。
 日本選手は、砲丸投げとスラロームなどにエントリーしています。
いよいよ試合開始です。1人の日本人選手が勢い余って車いすごと転倒しました。
選手は倒れたままです。
しかし、審判や会場係の人に動きがありません。
観覧席の日本人スタッフが慌てて飛び出して行きました。
その後も競技中にトラブルがある度にスタッフがサポートしました。
翌日は晩餐会です。
大いに盛り上がりました。
日本選手の近くに大会運営委員(車いす)が挨拶に来ました。
そして言いました。
当大会に参加してくださり感謝します。
しかし、次回からの参加は辞退して欲しい。
皆、びっくり仰天です。
彼は静かにこう言いました。
私たちは「自立」が原則です。
助けが無ければ試合が続行できない方はスポーツ選手とは言えません。
確かに彼らは転倒しても自力で這い上がります。
もちろん日本選手も自力で這い上がれます。
ただ、周囲の人が起こしてくれるのが当然と当事者も周囲も思い込んでいたのです。
できないことに支援を受けることは恥ずかしいことではない。
できることまで支援を受けることこそ恥ずかしい。
 この時始めて中村たちは「自立」の意味を知りました。
65年経った現在、我が国の「障がい者スポーツ」は世界レベルです。
「車いすプロ・テニスプレーヤー」の国枝慎吾は、
国民栄誉賞を受けました。
65年の歳月が此処まで変えたのです。
 もう一つ大切なことがあります。
パラリンピックには「聴覚障がい者」や「知的障がい者」は参加していません。
独自の世界大会を開催しています。
聴覚障がい者の世界大会は、パラリンピックよりも歴史が古い。
1924年のパリ大会が最初です。
現在は、「デフリンピック」として世界100か国以上の人たちが集う大きな大会です。
知的障がい者の世界大会もあります。
「スペシャルオリンピックス」です。
これは、故アメリカ大統領ケネディの妹ユニスの発案で、1968年にケネディ家の敷地内で行われたのが始まりです。
【NPO親子ふれあい教育研究所代表(元大学教授)藤野信行】

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