東北自動車道に沿って走る国道122号線が開通してから50年ほど。その昔、この道を蒸気機関車やディーゼルエンジンを動力とした軌道車が走っていた。土地の歴史を研究する「美園郷土史会」の調べによれば、「武州鉄道」の名で知られた路線は、大正8年に「武州鉄道kk」への社名変更を経て開通。当時は7〜8キロの区間を往復して、運賃は一杯のそばが10銭ほどであった時代で50銭であったが、川口駅や赤羽駅の本線に接続されることなく、昭和13年に経営不振を理由に廃線した。そんな折、たしか子どもの頃に近所の友だち2〜3人と「電車道の鉄橋(画像参照)まで行ってみよう」と話したことがあった。高い場所に座り、お菓子を食べていた私たち。当時は10歳くらいであったが、子どもながらにその丘はとても高かったような記憶もある。「武州鉄道」が廃線してから25年もの時間が過ぎていた、とある日の思い出だ。そして今年の春頃、昔の記憶をたどりながら、久びさに「武州鉄道」にゆかりのある現在の目白大学・岩槻キャンパス周辺を散策してみた。受付けにいた大学の関係者に、思い出があった旨を伝えると「電車が通っていたとは聞きましたが、資料にはありません」と返ってきた。少しばかり、残念な気持ちを味わったものの、正門からまっすぐ進んだ大学の表玄関からは元気な若い学生たちの声が聞こえてきて、鮮やかな若葉も心なしかいっそう揺れていたように思えた。これからの時代を担う若者たちのため、当時あった鉄橋も細くて長い“電車道”も活かされている。しかし、もはや100年ほど前に電車を通そうと汗を流していた先覚者たちが、泥にまみれたことも忘れたくないという思いが巡った。そういえば、味噌の地区には「停車場」や「踏み切り」といった屋号のお宅が今でも健在だ。電車が走っていたのは20年ほどとされているが、いつまでも「武州鉄道」を語り継ぎたいものだ。【増田啓子】
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