天正10年(1582)8月9日、北条の軍士が等呂木(甲州市勝沼町等々力)の徳川の陣を夜襲し、徳川軍は大野砦(山梨市大野)へ退却。駆け付けた武田家の浪人が勝沼で北条軍の軍兵多数を討捕り、中でも御手洗五郎兵衛(直重)は、采牌を持つ者・三沢勘四郎を討取り、恩賞に与りました。(『治世元記』)
この件につき、『寛永諸家系図伝』(以下『寛永伝』)の御手洗の伝には、軍勢200人を率いてきた「武州の風間」を討捕ったとあります。風間は本当に討捕られてしまったのでしょうか。
実は、『寛永伝』には、その基となる、編纂時に各家が上呈した家譜の写しがあり、享保5年(1720)成立の『改選諸家系譜後編』もその伝本の一つと考えられます。その御手洗の伝には、「武川(ママ)之風間」が攻めてきたとき「其(その)将」を撃ったとありました(巻230、国立国会図書館蔵本コマ21)。
三沢勘四郎が風間の将だったとすると、2つの史料は矛盾なく解釈できますが、「武州の風間」周辺に三沢姓の人物の存在を裏付ける史料は確認できていません。
「風間(笠間)を討った」という伝は、このとき大野砦を守っていた三枝(さえぐさ)虎吉の伝や、『八王子市史 下巻』(1967年、658頁)にある、のちの八王子千人同心の組頭・山本家の初代・忠玄(ただはる)の伝にもみえます。
しかし、前者は「笠間を追撃て甲州静謐す」(『寛永伝』国立公文書館蔵本156−0016第173冊コマ11)とやや抽象的で、後者は、『八王子千人同心史 通史編』(1992年、91頁)によると、同家「先祖書」に「風間孫右衛門の一統」を勝沼まで追討し、忠玄自身も首級をあげた、とある由で、本人を討捕ったという話ではなさそうでした。
いずれにしても、風間の名は、北条方の一方面軍を象徴する存在として、徳川方によく知られていたようです。では、風間出羽守が北条氏政から出撃を依頼された同年9月13日以降には、どのような出来事があったのでしょうか。(つづく)【岩槻風魔忍び研究会・吉田】
画像:『寛永伝』御手洗直重伝にみえる「武州の風間」の名(国立公文書館蔵本156-0016第132冊コマ13)
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