◎馬頭観世音石造(馬頭観世音菩薩石造)東金町四丁目交差点の和菓子屋「岩月」から水元公園岩槻橋交差点を通り水元五丁目三差路に至るこのバス通りは、明治初期の地図上に記載された旧岩槻街道(馬道)の付け替え道路で、地域の案内板に岩槻街道と注記されています。またこの道と小合溜(古利根川)の間に築かれた土堤の道や、小合の村の寺社を結ぶ村道も岩槻慈恩寺へ行く道として利用されていたようです。馬頭観世音石造は水元五丁目三差路の植え込みの中にありました。以前この場所は古利根川の川岸でした。小岩からここに来る途中の慈恩寺道の通り道でもこの石造を見かけています。たぶん馬は行徳から塩を運ぶ荷役として使われた馬で、死後その労苦をねぎらうため、人と同じように墓を建て、お弔いをしたのでしょう。馬が大切にされていた時代のことが偲ばれます。 この馬頭観世音石造が置かれた周辺は以前、猿が又と呼ばれていた地域で、池や水路が複雑に入り組んだ場所でした。ここから先の慈恩寺道は、道しるべが見つからず、何処を人々が通って行ったのか、道筋がわからなくなっていました。数年私は江戸川の上流や中川沿い、対岸の戸ヶ崎、八潮で手がかりを探していました。でも当時荷を背負った馬は、渡しの船に乗らずに岩槻や慈恩寺に行くことができたはずと推測しました。 慈恩寺への参拝が始まった頃は、上流からの古利根川(中川)の流れが、この辺りで大きく蛇行して江戸川へ流入していました。当然川に土堤が築かれていました。古利根川を背にした反対側は、亀有溜井(貯水地)となっていました。馬はこの間の土堤の上を通り、対岸の八潮市古新田地区へ、馬を進めたのでしよう。この古利根川に接する土堤は亀有溜井締切堤※とも呼ばれています。
※亀有溜井と締切堤 一七二九年以前 葛飾区水元五丁目と八潮市古新田を結ぶ土堤から中川橋付近の土堤の間、亀有溜井(貯水地)はこの二ヶ所の地点で水をせき止め、亀有溜井(貯水地)から葛西領の田畑へ用水を供給していました。【榎本淳三郎】
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