東武鉄道東岩槻駅の東に花積の踏切があります。その前の坂道を左に上がって、高台の端を五00メートル程歩くと、東西寺の長い白壁の角に六地蔵が置かれています。地藏のとなりにはさらに道案内のお地蔵様が置かれています。台座右面 慈恩寺道 右 こしがや道台座前面 奉彫刻地藏尊石廟… 武州崎玉岩付領 花積村台座左面 享保十七年(一七二三)この地藏道標が置かれた頃は、武蔵国埼玉岩槻領花積村でした。現在は春日部市に編入されています。この地蔵の前を通る道は行先表示で「こしがや道」と前面に表記記がされています。※東西寺は大宮台地の縁にあたり、近くに花積貝塚があり、縄文時代前期から中期の住居跡と土器が出土しています。道なりに進むと、表慈恩寺公民館前の庚申塚に出ます。慈恩寺地域内に入いったことを、小岩、越谷方面から来た人々に教えてくれます。道標が向いている方向が慈恩寺です。庚申塚には六つの石塔が並べて置かれています。左から見ていくと①馬頭観世音立像 天明二年(一七八二)の記載があります②卍字の下 ¬秩父 坂東 西国 観世音大正九年(一九二〇)建立と記されています。慈恩寺道の中で最も新しく建てられた供養塔道標です。左面には慈恩寺、表慈恩寺、南平野、箕輪の四つの地区名とその村民名、石工名が記されています。 ③青面金剛立像庚申塔 明和二年(一七六五)の記載があります 三猿の下の台座には¬表慈恩寺村 講中三十六人。右 いわつき道、左 こしがや道と記されています。④青面金剛立像庚申塔 天和二年(一六八二)建てられた最も古い年代の庚申塔です。 ⑤青面金剛立像庚申塔 元禄六年(一六九三)④⑤については文字不鮮明。⑥「青面金剛庚申塔、 寛政一二年(一八〇〇)の記載があり、ここでは唯一の文字塔です。この場所に来て、改めて小岩からの慈恩寺道は、永きに渡り青面金剛が置かれた庚申の道として、また鎌倉時代より続く坂東三十三観音霊場の坂東道の一ルートとして明治、大正、昭和の頃まで確かに庚申、巡礼の道となっていたことが伺えます。【榎本淳三郎】
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