岩槻駅東口から南に延びた駅前通りを直進し、信号二つ目の交差点の左右に伸びた大通りがかつての日光御成道です。ここを左折して一つ目の信号を右折し、しばらく直進するとT字路の右側にコンビニがあります。右折した交差点からコンビニに至る間の道の両側にひらけた街が〝横町〞です。横町の由来は、御成道から横に伸びた道にひらけた街なので横町と呼ばれるようになりました。コンビニ付近の交差点は、岩槻城の出入口で横町口と呼ばれ、木戸と番所がありました。横町口の両側は、岩槻城と街を囲んでいる総構(そうがまえ)と呼ばれていた土塁がありました。この土塁は、戦国時代は大構(おおがまえ)と呼ばれていましたが、江戸時代になると総構と呼ばれていました。延享三年(一七四六)町の様子は、長さ二町十二間、家数八十七軒、人口四百二十五人、名主一人、組頭二人、馬数二匹、寺院は真浄寺、千手院とあります。別の史料には、真浄寺、千手院、秋葉社、稲荷社が報告されています。真浄寺は、日蓮宗の寺院で、池上本門寺の旧末寺で、天正十八年(一五九〇年)銘の祖師像があります。千手院は、曹洞宗の寺院で、加倉の洞雲寺旧末寺で、慈眼山千手院と称し、かつては総構内にあったといわれています。秋葉社は、永禄十二年(一五六九)の勧請といわれ、千手院の鎮護のために祭られたと伝えられています。町の中央部を道幅三間半の日光御成道下道が通過しています。岩槻城主阿部重次の御国帰りの節や徳川将軍の日光社参の折には、横町を通り、城内に入城しています。明暦二年(一六五六)に検地が行われ、町の石高は百九十八石でした。横町口は、地域の人々からは枡形(ますがた)と呼ばれ、かつては枡形と称されたバス停がありました。枡形とは、城の出入口を表す城郭用語です。文政九年(一八二六)の町役人は名主勇左衛門、組頭吉五郎、百姓代奥次郎が務めています。また、横町には戦国時代の岩槻城主太田氏の家臣宮城氏の子孫が居住していました。横町には刀屋という屋号を持つ平四郎が旅籠屋を営んでいました。この刀屋には、笠間稲荷に参詣する与野の代参講の人々が行きや帰りの折に休憩所として活用していました。このほか近郷近在の人々が利用していました。岩槻城主からの触れ達しは、岩槻会所から市宿町を通して横町に届いていました。【文責・飯山実】
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岩槻郷土資料館だより㉒「岩槻町全図」
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