岩槻九町の人々が信仰した一つに旦過(たんが)の庚申様(庚申堂)があります。庚申様は、岩槻駅東口から駅前の道を直進し、一つ目の信号を左折します。左折すると遠方に岩槻城を囲っていた土塁上に鎮座している愛宕神社がみえます。直進し、愛宕神社手前の信号の左側に鳥居と大きなイチョウの木がある所が庚申様(庚申堂)です。 図は、江戸時代に描かれたもので、岩槻城と街を囲む土塁、城から外に出入りするための出入り口の旦過町口(旦過口ともいう)の柵、旦過口を通過した道路(「野道」「菖蒲道」と呼ばれていました。)、土塁の外側の道路(この道も「野道」と呼ばれていました)があります。土塁の野道と菖蒲道が交差する十字路の右側に庚申塔(石造物)があります。この庚申塔が庚申様の本尊です。庚申塔の材質は石で、唐破風の笠石、本塔の角柱、その下の台石からなっています。角柱の正面に青面金剛の立像が浮彫され、青面金剛の足元には邪鬼、その下に三猿(言わ猿、聞か猿、見猿)があります。左側面にはこの庚申塔が造立された年号「于時宝永二乙酉九月吉日」(一七〇五年)、背面には「南無阿弥陀仏」、右側面に願文「奉供養庚申現当二世安楽処」と刻まれています。この青面金剛の恐ろしい姿から悪病をはらい、ご利益があるといわれています。とくに病の予防、治癒を祈ったといいます。また一説には、旦過町に疫病がはいってこないように青面金剛像(庚申塔)を北に向けて立てていたと伝えています。庚申信仰は、中国の道教の教えで、人間の頭と腹と足に三尸(さんし)の虫がいて、いつも人のことを監視し、庚申の日の夜、人の寝ている間に天に登って、天帝に日ごろの行いを報告し、罪状によっては寿命が縮められるといい、そこで、三尸の虫が、天に登れないようにするため、この日の夜は徹夜をしなければならないという。日本では、“庚申様”として、庚申の日の夜は、人々が集まって“庚申様”を祀り、その後歓談し、夜を明かしました。集まった人々の結集団体を庚申講といいます。庚申待ちを3年18回続けた記念に建立したのが、庚申塔です。庚申の日は、十干(じっかん)と十二支(じゅうにし)を組み合わせると、庚申(かのえさる)の日が年に6回あります。この日を初庚申、二庚申、三庚申、四庚申、五庚申、納庚申といいます。庚申様の世話人村田屋七右衛門(旦過町居住)は、御城内、久保宿町、市宿町、渋江町、辻村、桶川宿、岡泉村、旦過町の人々と協力して御手洗石(嘉永四年、一八五一年)や社殿に掛かる鰐口(嘉永五年)を奉納しています。庚申様は、庚申堂、猿田彦神社、庚申尊とも呼ばれ、旦過町(丹過町)の人々は昔から大事にお守りしています。【文責・飯山実】
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