一里塚(いちりづか)は、道路の両側に一里ごとに木を植えた塚をいいます。日本では、国境の標が一里塚の始まりとする説があります。一般的には江戸時代の初期に徳川幕府がつくった制度のことをいいます。織田信長は、天正年中(一五七三~一五九二年)自分の領内に三十六町ごとに一里塚を築き、榎を植えたといいます。豊臣秀吉は、織田信長と同じように三十六町を一里として五間四方の一里塚を築き全国的な普及を図りました。徳川家康は、慶長九年(一六四年)江戸日本橋を起点として東海道などの街道や日光御成道などの脇街道に、榎を植えた一里塚を全国的に築造しました。榎に代わり松や杉などを植えた塚もありました。榎は、根が深く広がって塚を固め崩れにくいこともあり広く称されたといいます。幕府の領地は代官、私領は領主が築造をおこないました。私領にあてはまる岩槻城主は、領内の桶川(中山道)、岩槻(日光御成道)、相野原(日光御成道)、上野田(日光御成道)、笹久保(日光御成道下道)、釣上(日光御成道下道)の一里塚を築造いたしました。一里塚は、伝馬(てんま)の賃金支払いの基準になるとともに、旅人の里程の目安となっていました。日差しの強い日は木陰が休憩場所になりました。また、塚に植えられた榎の実は、医薬にも利用されたと伝えられています。岩槻宿の一里塚は一対で、右側の塚は、旧岩槻市役所入口の春日部より昔の郵便ポストがあったあたりです。左側は、大龍寺へ入る道の春日部よりにありました。現在人形会館の西側丁字路の角に一里塚の碑がありますが、塚はここではなく百メートルほど春日部よりにありましたので、誤解のないように。一里塚近辺には、屋号を「エノキした」と称する家があります。岩槻宿から上は膝子の一里塚、下りは相野原(埼玉県指定文化財、岩槻区)の一里塚です。岩槻宿から隣接の宿までの距離・駄賃及び人足賃(天保九年)は次の通りです。越谷宿まで三里、糟壁(春日部)宿へ一里三十町、荷物駄賃八十二文、乗掛荷人共八十二文、軽尻馬壱匹疋五十四文、人足壱人四十文。越谷宿へ三里、荷物駄賃百四十文、乗掛荷人共四十文軽尻馬壱疋九十文、人足壱人六十八文。幸手宿まで四里、荷物駄賃百八十六文、乗掛荷人共百八十六文、軽尻馬壱疋二百十六文、人足壱人九十一文。大門宿(緑区)まで二里十一町、荷物駄賃百九文、乗掛荷人共百九文、軽尻馬壱疋六十九文、人足壱人五十三文。江戸まで八里三十町でした。この距離が人足や荷物・馬の使用駄賃となる基準でした。 埼玉県内を通過する中山道・日光道中・日光お成道の中で、には、辻村、浦和宿、加茂宮村、上尾宿、桶川宿、宮前村、箕田村、前砂村、久下村、石原村、新島村、東方村、山河村、岡下村、傍示堂村、小島村に一里塚がありました。日光道中は、吉笹原村、蒲生村、下間久里村、小淵村、堤根村、清地村、茨島村、幸手宿、小右衛門村にありました。日光御成道は、元郷村、鳩ケ谷宿、戸塚村、玄蕃新田、膝子村、岩槻宿、相野原村、上野田村、高野村にありました。この中で、一里塚がよく残っているのは御成道です。(文責 飯山実)
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『台風のおとしもの』(せやざきやすこ)
岩槻郷土資料館だより㊷ 「岩槻のダルマ」
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