岩槻郷土資料館では、一二月一二日(日)まで、「岩槻周辺の城を探る」と題し、北本市石戸城、富士見市難波田城、吉見町松山城など五カ所の城館跡について、各教育委員会や資料館などの協力を得て、出土品を中心に展示を行いました。各城館跡とも、特徴的な出土品がみられ、その地域での中心的な役割をもち、周辺地域との関連を示す資料も多くみられました。こうした中、岩槻城とも関連の見られた、内面にウズマキの文様の見られるかわらけが松山城、難波田城に見られました。かわらけは素焼きの皿で、中世の城跡や居館跡など限られた場所からまとまってみつかることが多く、何らかの儀礼や儀式の際に用いられ、一度の使用で廃棄されたものといわれています。ウズマキのかわらけは、ロクロで成形をする際に指やヘラのような工具で、ウズマキを描いています。ウズマキの意味は明らかにされてはいませんが、およそ一五世紀の終わり頃から一六世紀の中頃まで見られるようです。元荒川の西側の城館跡である岩槻城(さいたま市)、六反田遺跡(深谷市)、河越城(川越市)、松山城(吉見町)、小倉城(ときがわ町)、難波田城(富士見市)、滝の城(所沢市)、葛西城(葛飾区)、江戸城(千代田区)、茅ケ崎城(横浜市)、丸山城(伊勢原市)など、埼玉県から神奈川県にわたる広い範囲でみつかっています。こうしたかわらけは、地域ごとの形態や作りなどの特徴から、政治的な勢力とのかかわりが考えられています。この時期のものは「山内上杉氏」、「扇谷上杉氏」、「古河公方」の三つの勢力範囲と、ほぼ一致しているといわれています。このウズマキのかわらけは、その分布から当時武蔵から相模に勢力のあった扇谷上杉氏との関連が考えられています。今後、類例が増加し研究が進めば、文献資料の少ない中世の様子を解明できる貴重な資料の一つとなるものと思われます。
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