大正12年9月1日の関東大震災が起きた時、83歳の渋沢栄一は東京日本橋の事務所にいました。
その後事務所は火災で焼失し、貴重な徳川慶喜の資料など一切を失います。
心配した息子たちが「生家の深谷に帰るよう」に勧めると、「こういう時には、いささかなりとも働いてこそ、生きている申し訳が立つようなものだ」と一喝。
被災民とともに東京にとどまり、大震災がもたらした難局に敢然と立ち向かうことを宣言。
いままでの豊富な経験を生かし、「民の力を結集」して、震災復興に挑戦することにしたのです。
北区滝野川にあった私邸を食料配給本部とし、被災者の食糧確保のため埼玉県からコメを取り寄せることを決めました。
渋沢は急遽内務大臣に任命された後藤新平と協議し、「罹災者収容、炊き出し、臨時病院の確保」など「官」ではなかなか手が回らないきめ細かい対策を迅速に実行していきました。
次に渋沢は国際社会にも目を向けます。渋沢が期待したのは4度も訪米して各地で出会った米国の実業家たちでした。
渋沢は明治39年のサンフランシスコ大地震の際には、先頭に立って日本で義援金を集め、世界中で最も多額の義援金を米国へ送り大変感謝されました。
渋沢は9月13日には援助依頼の電報を打ち、「東京で大震災発生」のニュースが全米を駆け巡ります。
鉄鋼王ゲーリー、銀行家ヴァンダーリップ、材木商クラークなど米国の錚々たる実業家が、心温まる見舞いと激励のメッセージを送ると同時に、大がかりな義援金募集を開始しました。
その結果、予想をはるかに上回る巨額の義援金や大量の救援物資が届けられたのです。
特にサンフランシスコを中心とする太平洋岸諸都市の実業家は、労を惜しまず協力しました。
11月28日には、旧知のクラーク、グリックスらの実業家が大洋丸にて来日し、渋沢を激励したほどでした。
次に渋沢は、首都東京をどのような都市として復興させるかという中長期の課題に取り組みます。
首都を遷都すべしという声もあるなか、「東京湾築港と京浜運河の採用」を提案し、商業都市として東京を復興させようとしました。
復興予算の縮小などにより、この提案は実現しませんでしたが、現在の東京港や東京は、まさしく渋沢の夢見た商業都市として成長しています。
渋沢は人々が平和な生活を取り戻すためには、「物質の復興」の根底にある「精神の復興」が不可欠であると考えていました。
大正時代に入り、急速な近代化と第一次世界大戦中に発生したバブル景気の影響で、仁義道徳がすたれたと感じた渋沢は、政争に明け暮れる政治家や、公益を忘れ私利私欲に走る実業家を強く戒めていたのです。渋沢の教えは、まさに今の時代に通じるところがあるのではないでしょうか。
さいたま市防災アドバイザー 加倉井誠
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