定期のさいたま市報が、いつものように郵便受けに収まっていた。
何気なく頁を繰ると、「岩槻区誕生二十周年」の文字が目に飛び込んでくる。二十年、人でいえば成人である。
めでたい節目であるはずなのに、頁を閉じたあと、胸の奥に微かなざわめきが残った。
今、私の住んでいるこの地は、生まれ育った場所である。
かつては南埼玉郡柏崎村と称し、その後、岩槻市となり、そして二十年前にさいたま市岩槻区となった。
行政の名は幾度も変わったが、我が家の敷居をまたぐ足の感触は、今も昔も同じである。
子供の頃、家の周りは見渡す限り広がっていた田畑は、今や影も形もない。
春はれんげが風に揺れ、夏は青々とした稲が波を打つ。
秋になれば黄金色の穂が頭を垂れ、冬は霜柱を踏みしめる音が朝の静けさに響いた。
田んぼの用水路では、フナやハヤが群れ、時には思いがけずウナギが釣れることもあった。
あぜ道には、つくしやノビルが惜しげもなく顔を出し、子供たちは夢中で摘み取った。
自然は教科書よりも雄弁で、遊び場であり、学び舎であった。
子供たちの身なりは、今思えば実に質素である。
袖口は水っ洟で光り、膝にはいつも擦り傷が絶えなかった。
それでも誰一人としてそれを恥じる者はいなかった。
皆が同じだったからである。
貧しさは確かにあったが、そこには同時に、屈託のない明るさもあった。
言葉もまた、今とはまるで違っていた。
方言丸出しの調子で、東京弁とは別世界のイントネーション。
学校の先生さえも、どこか大らかであった。
国語の授業で「馬場先門」を「バジョウサキモン」と読み上げ、東京から疎開してきた出来のよい生徒に「ババサキモンではないでしょうか」と指摘され、翌日こっそり訂正する――そんなことがまかり通った時代である。
皆、良くも悪くも田舎者であった。(つづく) 【石井 孝】
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