葫蘆島から日本へ―引揚船が運んだ希望と悲劇
1946年5月に始まった葫蘆(ころ)島からの引揚げは、終戦後の中国に取り残された日本人を祖国へ送り返す歴史的大事業であった。
戦乱や飢餓、暴行、病気などの苦難をくぐり抜けてきた人々にとって、引揚船は苦しみの終わりを告げる「希望の船」であった。そして1948年までに約105万人が帰国したが、その航海は決して楽なものではなかった。
船内は過密状態で、長い避難生活による栄養失調や病気を抱えた人が少なくなかった。
十分な医療設備もなく、赤痢や肺炎、衰弱などによる死亡が相次いだ。
とくに乳幼児や高齢者にとっては厳しい環境であり、日本を目前にしながら命を落とす人もいた。
船内で死亡者が出た場合には海洋葬が行われた。
遺体は十分な葬送の準備もできないまま、あり合わせの布や毛布に包まれ、簡単な読経や黙祷の後、静かに海へ送られた。
甲板に集まった乗客たちは深く頭を下げ、海へ消えていく姿を見送ったという。
数日間の航海を経て船が博多港へ近づき、水平線の向こうに日本の山影が見えた瞬間、歓声が上がり、泣き崩れる人もいた。そして大人たちは黙って手を合わせたという。
葫蘆島からの引揚げは、百万人以上の命を救った偉業であると同時に、戦争が残した深い傷跡を物語る歴史でもある。
引揚船は希望を運ぶ船でありながら、祖国を目前にして倒れた人々の無念と、多くの家族の涙をも運んだのであった。
また、アメリカ軍は大量の引揚専用船を確保することが困難だったため、「三角輸送」と呼ばれる方式を採用した。
①華南の国民党軍の兵員や物資を葫蘆島へ運ぶ
②次に葫蘆島から在留日本人を博多港へ輸送
③続いて戦時中に日本へ連れて来られていた中国人や物資を華南へ運ぶ。
という限られた船舶を有効活用しながら大規模な引揚事業が進められたのである。
【いわつきともちゃんのかい・ 新井治】
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