敗戦後、多くの引揚者は命からがら祖国日本へ帰還した。
博多や佐世保の港に上陸した人々は、日本の土を踏みしめて涙を流し、温かい味噌汁や白いご飯に「日本へ帰ってきた」と安堵した。
しかし、その喜びの陰には、決して語り尽くせない女性たちの悲劇があった。
満洲や朝鮮半島からの引揚げの途中では、無法状態のなかで多くの女性が性暴力の被害を受けた。
生き延びるために望まぬ売春を強いられた女性もおり、その結果、望まない妊娠を抱えた女性が少なくなかった。
将来を悲観し、引揚船から身を投げる女性もいたという。
当時日本では、「産めよ殖やせよ」の号令のもと、妊娠中絶は法律で原則禁止されていた。
しかし、引揚女性の深刻な状況を前に、政府は超法規的措置として中絶を認めた。
引揚港で妊娠や性病の検査を行い、治療入院先として福岡、佐賀、長崎、山口、広島、岡山、京都などの国立病院・療養所を指定し、福岡県では筑紫野市の二日市保養所がその役割を担った。
二日市保養所では、性病の治療と中絶手術が秘密裏に行われた。
カルテには患者名も記されず、麻酔不足のため麻酔なしで手術が行われ、命を落とした女性もいた。
医師の証言では約1年半で400~500件の中絶手術が行われたという。
厚生省の記録では、1946年から1949年までに検疫所を通過した女性約5,300人が妊娠し、そのうち520人が人工流産を必要とした。
こうした措置は被害女性の救済である一方、「混血児」を生ませないという国家の意図も色濃く存在したと指摘されている。
女性たちは性暴力の被害者でありながら、「日本人の純潔」や「民族の純血」を守るという論理の中で沈黙を強いられ、偏見や差別にも苦しんだ。
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