現在私たちが岩槻城跡として見聞している城郭は、後北条氏時代(1567〜1590年)の遺構で、その一つが、城と町を囲んでいる土塁です。土塁は、豊臣秀吉の小田原征伐に備えるために築造されたもので、この土塁を岩槻の人々は「お土居」「金屏風」「惣構」などと称していましたが、昭和48年中世には「大構」と呼ばれていたことが確認されてからは、その名前が定着していきました。大構は、岩槻台地上にあり、宮町1丁目の旧元荒川から出口の交差点・愛宕神社・芳林寺裏を回り児童センター、児童センター入口交差点、弥勒寺裏を巡り丸山病院下を通り駅前通りの交差点を通りシルバー人材センターの脇を巡り岩槻中学校の周囲を巡り岩槻第三分団詰所の脇を巡り住吉神社・冨士浅間神社に至ります。このため江戸時代の呼び方は「岩槻城並城下町」と呼ばれていました。大構に囲まれた城下町は、岩槻城主阿部家時代は市宿町、久保宿町、大工町、横町、渋江町、冨士宿町があり「府内六町」と呼ばれていました。その後街並みが整備され、岩槻城主大岡家時代は、市宿町、を中心に新町・横町、久保宿町を中心に渋江町・田中町、冨士宿町を中心に新曲輪町・林道町の九町がありました。久保宿町の中に旦過町・大工町、渋江町の中に与力町、田中町の中に代官町、同心町がふくまれていました。大岡家時代は、触達を市宿町、久保宿町、冨士宿町に出し、そこから各町に達せられていました。城下町からの出入は、市宿口(市宿町)、横町口(横町)、旦過口(久保宿町)、田中口(田中町)、冨士宿口(冨士宿町)などの木戸口がありました。慶長年中(1596〜1615年)徳川家康が鷹狩の途中岩槻城に泊まった時は、市宿口で岩槻城主高力清長や市宿町の町年寄勝田氏・押田氏・河野氏・蓮見氏らが出迎えています。木戸口には、柵や番所・御関札建所などが設けられ、番所には、取縄や松明・提灯などの道具が置かれ、木戸番役が詰めていました。九町の町役人は「町年寄」と呼ばれていましたが、岩槻城主戸田氏の頃に「町名主」に名称を変更しました。九町には、後北条氏時代の家臣勝田氏、押田氏、河野氏、蓮見氏、宮城氏、柏崎氏、瀬戸氏、齋藤氏、平野氏などが居住していました。城下における商業は市立てを行う市宿町が主であり、半農半商の久保宿町、渋江町、田中町、横町、農業が主体の冨士宿町、新曲輪町、林道町でした。城下町九町の総名を「岩槻宿」と言っていました。その後、岩槻九町は明治6年10月に廃止され、岩槻町と改称されました。【岩槻地方史研究会・飯山実】
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