
岩槻城から出土した手づくねの「かわらけ」
岩槻城跡から出土する遺物には、食器や調理具などとして使われてやきものがたくさんみられます。
その中でも「かわらけ」は特に目をひきます。
これは直径10㎝ほどの素焼きの皿です。そのため、儀礼や宴席の必需品であり、一度に大量に使用され、その都度廃棄される、使い捨ての食器であるといわれています。
これまでにもここで取り上げてきたようにこの「かわらけ」には、形態や作りなどからいくつか地域的な特徴が見られます。
その特徴は、それぞれの政治的な勢力とのかかわりを示していると考えられています。
岩槻城跡から出土した「かわらけ」は15世紀後半から16世紀前半にはその特徴から山内上杉氏に関わるものや扇谷上杉氏に関わるものが見られ、そうした政治的な背景をうかがうことができます。
16世紀後半になるとロクロを用いて成形した「かわらけ」にまじり、小田原の後北条氏に関わる「手づくねかわらけ」と呼ばれる特徴的なものが岩槻城
樹木屋敷跡第一地点や岩槻城本丸跡から出土しています。

「手づくねかわらけ」の底部(成形したときの指の跡がみられます)
これはロクロを使わず、手びねりで成形して作っていくものです。
こうした「かわらけ」やそれを模倣したと思われるものは後北条氏の本拠地であった小田原城や後北条氏勢力下であった八王子城跡、葛西城跡、鉢形城跡、川越城跡、忍城跡などからみつかっています。
これは京都風の「かわらけ」と呼ばれているもので、後北条氏が京都から土器作りの職人を招き、さかんに作り、使用したものです。
こうした「かわらけ」は、中央との関連など後北条氏の経済力や権威を示すものであったとも考えられています。
岩槻城主であった太田氏資が永禄10年(1567)、上総国三舟山で里見氏との合戦で敗死。
その後、岩槻は後北条氏による直接的な支配、さらに北条氏直の弟氏房が太田氏の名跡を継ぐことなり、後北条氏の支配下に入ったことを物語る遺物と考えられています。
岩槻城跡などの発掘調査の成果からだけでなく、残された文献や歴史的事実など様々な面からみていくことによってさらに多くのことが解明されていくものと思われます。
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