1日に2000人以上が命を落としていたとも言われる惨状を前に、「このままでは同胞が異国の地で死に絶えてしまう」と立ち上がったのが丸山邦雄らであった。
彼は危険を承知で満洲を脱出し、1946年3月、日本へ渡って日本政府やGHQに対し、在留邦人救済を強く訴えた。
当時、日本政府は食糧不足や社会混乱を理由に大量引き揚げには消極的であり、GHQも中国共産党支配地域との交渉には慎重であった。
その中で丸山は、単に「助けてほしい」と訴えるだけではなく、「どこから、どのように帰国させるのか」という具体策まで示したのである。
彼が注目したのが、遼寧省西部の港町・葫蘆島であった。
葫蘆島を選択した第一の理由は、旧満洲各地から鉄道で人々を集めやすい場所だったことである。
奉天(瀋陽)、長春、ハルビンなどを結ぶ鉄道網につながっており、多数の日本人を比較的安全に移送できた。
また、当時の満洲では多くの港湾施設が戦争で破壊されていたが、葫蘆島は設備の損傷が比較的少なく、大型船が接岸可能であった。
さらに当時、中国では国共内戦が続いていたが、葫蘆島周辺は中国共産党側の管理下にあり、比較的秩序を保ちやすかった。
中国側にとっても、大量の日本人を長期間抱えることは食糧事情から難しく、一般民間人の帰国には現実的な利点があったのである。
そしてGHQやアメリカ側にとっても、海上輸送ルートを確保しやすい港であり、輸送船を定期的に寄港させることが可能だった。
つまり葫蘆島は、地理・鉄道・港湾・政治・軍事という複数の条件が重なったなかで、「唯一とも言える現実的な港」だったのである。
こうして実現した「葫蘆島大送還」により、約105万人が祖国へ帰還した(当時の残留邦人は170万人)。
しかし、その陰では多くの人々が飢えや病で命を失い、中国残留孤児となった子どもたちが大勢いた。
【いわつきともちゃんの会・新井治】
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