岩槻九町は、総称として「岩槻宿」又は「岩槻城付町場」とも呼ばれていますが、その一つが「市宿町」です。1560(永禄3)年に勝田家の先祖・勝田佐渡守が、のちに「氏資(うじすけ)」と名乗る岩槻城主・太田資房から市立ての許可を得て、市(いち)が立ち始めたことから「市宿町」と称するようになったと伝えられています。市が立てられ町は繁栄していましたが、1590(天正18年)に豊臣秀吉の小田原征伐の際、岩槻城は落城し町人が離散してしまったものの、のちに岩槻城主となった高力清長によって再興されました。また、1601(慶長6)年に市の掟が発せられ、毎月1と6の付く日に市が開かれ、近郷近在の人々で賑わう商業の中心地となりました。市では、道路の中央に祀られていた「市神社(市神様とも言う)」の神前で祭文が読み上げられたのち、背中合わせで2列に並び、青物や木綿などが売買されました。木綿は、岩槻を中心に菖蒲・春日部・幸手地域で栽培されていた綿をもとに織り出された太織木綿で「岩槻木綿」と称され、栃木県の真岡木綿、群馬県の桐生木綿とともに関東三大木綿の一つとして名を馳せていました。この市の差配は、累代勝田家が肝煎(きもいり)として務めています。町は、上宿・中宿・下宿に分けられ、それぞれに名主や組頭の町役人が設けられ、市立ての場所は、上宿・下宿が交代で行っていました。御成道の中央に祀られていた市神様は「牛頭天王社」といいます。祭礼は平成30年7月7日、14日、15日で御神輿が町の通りを練りました。練らないと流行病が流行するといわれており、また、2月初午が「一・六の市日」にぶつかると火祭りをしました。交通の障害になるという理由で、明治21頃に現在地へ移設されたといいます。現在の児童館入口信号付近には岩槻宿の出入口があり、「加倉口木戸」「加倉口御門」「加倉口」「市宿口」「小切所」などと呼ばれ、木の柵と番所が設けられていました。徳川家康は、慶長年中(1596〜1615年)に鷹狩りの道中で岩槻城に泊まりましたが、本丸に入る前この町の出入口で岩槻城主高力清長や町役人勝田九郎左衛門、押田勘解由、河野縫之助、柏崎玄播、瀬戸兵庫、蓮見市郎左衛門などの出迎えを受けました。町は、日光御成道の両側にひらけ、道の両側に水路かありました。町屋は、水路から二間ほど下がって建てられていました。道幅は八間、町の長さは、児童館入口の信号から手押し信号を含め四つ目の信号付近まで五町十二間と云われています。1746(延享3)年の家数は166軒、人口は940人、寺社は西光寺、芳林寺、弥勒寺、市神社がありました。町の中ほど芳林寺入口付近に市場杭や高札、問屋場などが設けられ、久保宿町との境には木の柵がありました。【岩槻地方史研究会・飯山実】
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