満洲同胞百万人の引き揚げへ尽力
難民収容所では、飢えと病に倒れる日本人が後を絶たなかった。
関東軍の撤退によって取り残された民間人は、食糧も医薬品も乏しい収容所で極限の生活を強いられていた。
親を失った子どもたちは孤児となり、衰弱して静かに命を落としていく。
「このままでは多くの人が異国の地で死んでしまう。
何とかしなくては」と立ち上がったのが、経済学者の丸山邦雄である。
しかし当時、日本政府は現地定着化政策をとっており、満蒙開拓団員を現地に留め置こうとしていたため、帰国は絶望的だった。
彼は全満日本人会長・高碕達之助から日本政府宛ての密書を携え、1946年(S21)3月9日、危険を冒して満洲を脱出し、海路を経て同月13日に山口県仙崎へ上陸した。
早速、新甫八朗、武蔵正道らとともに旧満洲に残された日本人の祖国引き揚げを実現するため奔走した。
日本政府に働きかけるだけでなく、占領政策を担っていた連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)にも粘り強く交渉を続け、帰国の道を開こうとしたのである。
こうして彼らの執念ともいえる努力によって中国側との調整が進み、同年4月、遼寧省の港町・葫蘆島からの大規模な祖国引き揚げが結実したのである。
これは後に「葫蘆島在留日本人大送還」と呼ばれている。
終戦時、旧満洲には約170万人の日本人が残されていたが、そのうち約105万人が祖国へ帰ることができた。
「飢えと病に苦しむ人々を見捨ててはならない」その強い思いに突き動かされた丸山邦雄の働きが、多くの命を救う行動へとつながったのである。
彼がいなければ、開拓団員の帰国はなかったかもしれない。
丸山邦雄の働きは、戦後の混乱の中で百万人の命を救った行動として歴史に刻まれる英雄であろう。
だが、彼はそれを自慢することはなかった。
【いわつきともちゃんの会 新井治】
コメント
この記事へのトラックバックはありません。













この記事へのコメントはありません。